教育、学び、そして学校 〜 128

公開: 2024年6月10日

更新: 2024年6月10日

注 128. 子供たちの消極的な反対表明

今、日本社会の教育現場で起きている「不登校」や「いじめ」問題は、当事者である児童・生徒の目から見れば、「学校へ行って学ぶ」ことの意味や意義に疑問を持ち、「学校へ行かなくても何とかなる」と考えたり、「学校で弱い立場にある仲間を対象にして、嫌がらせをしても、自分の将来に悪影響が及ぶことはない」と考えている、人々がいるからでしょう。

つまり、被害者である児童・生徒も、加害者である児童・生徒も、社会における学校教育の意味を認めず、学力は学習塾で養い、その他の社会性を高める能力は、「習い事」や「スポーツクラブ」で学べば良いと思っているのではないでしょうか。子供たちも、その親たちも、学校教育でしか学べないことは、ほとんどないと考えているのでしょう。それほど、学習塾や「習い事」教室や「スポーツクラブ」は、社会的な構造に組み込まれているのでしょう。

しかし、それは、各家庭の経済負担が前提となっている教育サービスです。そのようなサービスに、次世代を担う人材の育成を頼ることは、正しいと言えるのでしょうか。ただ、「良いスポーツ選手になる」、「良いピアニストになる」、「良いハレリーナになる」、「良い大学へ入学する」、「優秀なプログラマになる」などの個人個人の目標を達成するためには、そのようなサービスを利用することは、効果的です。そして、そのことは家庭の収入が高いほど、有利になります。

個人としての要求と、社会的な要請を、両立させることは容易ではないでしょう。民主主義社会における、公的な初等教育の第一の目的は、その社会における人々の知的水準を向上させ、その社会の人々の知性を、民主主義が機能するように維持することです。日本社会の教育政策では、この後者の目的が、忘れ去られてしまったように思えます。

参考になる資料